人生においての学びに終着点はあるのか? これで完成と言える時があるのか? 今回は、この疑問について私なりに語りたいと思います。
すべてに完成はない
勉学において最終的な完成はあるのだろうか? 例えば日本の歴史について学んでいるとしよう。どんなに難解な大学の問題であってもスラスラ回答できるほどに学びを深めていたら、もはや、日本史は完全にマスターしており、これ以上に勉学をする必要がないと言えるかというと、それはできないと思う。これが、英語であれ数学であれ、すべて同じだと思う。どんなに極めたと思っても、さらにその先の課題は尽きないであろう。
仕事であっても同様であると思う。例えばエリート営業マンであったとして、顧客に対する対応が神対応であり、話術もすばらしく、その結果、常に営業成績がトップで会社に対する貢献度は社内一であったとしたら、もはや、これ以上の成長の要素は全くないと言えるかというと、そんなことはないと思う。さらなる極みが存在するはずだ。
ましてや、職人であれば尚更である。例えば大工の棟梁であったとして、どんなに難しい顧客の要望であっても、的確な判断により完璧な建築をこなし、更には、すべての工程を間違いなく指示できたとしたら、もはや究極の大工であり、これ以上の成長はないと断言できるだろうか。そんなことは絶対にない。更なるスキルアップを図るだろう。
人格についても同様であり、どんなに人望が厚くて誰からも認められる人がいたとしても、では、その人はもう成長する必要がなく、完成した人格としてこのままで良いと思うだろうか? 答えはノーだ。このような人ならば、更なる高みを求めて人格向上に努めるだろう。
私は解脱会の会員であり、私なりに日々、解脱の教えを学んでいる。では、あと何年学べば解脱を体得できるか? 金剛さまのようになれるか? と考えても、絶対にそんな日は来ない。それは、どんなに学んでいる方であっても同様なのだ。それでも、ほんの少しでも金剛さまのお近くに近づけるように、努力精進していくのだ。これは、死ぬまで続ける勉強である。
アプリのアップデートのように
スマートフォンのアプリを思い出してほしい。メジャーなアプリは頻繁にアップデートが施されているが、では、本当の意味での「完成品」を拝める日は来るのだろうか? おそらくそんな日は来ない。永遠にアップデートは繰り返されるだろう。もっとも、スマートフォン自体が毎年のように機能向上しているので、それに従っていかなければならないという理由もあろうが、これを除外してもアップデートは止まらないだろう。より便利に使いやすくという技術革新は、人類存続の限り止まらないのだ。
つまり、勉学であれ、仕事のスキルであれ、人間性であれ、宗教観であれ、すべては、永遠のベータ版であり試作品なのだ。完成の日の目を見ることは、叶わないのである。だから、理想通りの自分になれなくても落ち込む必要はない。どんなに素晴らしいと思える人であっても、「神」ではないのだから。しかし、人生を閉じるその日までは努力精進して、アップデートを繰り返せる人の人生は、輝いていると思う。
かしこ


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