神様は必ず相応しい方向に導いてくれます

1. 解脱の教え

 日頃、神仏に参拝し、手を合わせている自分はとても守られているはずだから、何事もうまくいく、自分の思い通りにことが運ぶと考えがちになります。
しかし、これは大きな間違えです。今回はこれについて語りたいと思います。

信仰心があるからこそ陥りやすい

 私は解脱会に教えを日々学ばせていただいてます。
御霊地に毎月参拝し、成田のお不動様に年に2回は参拝し、週に一度は氏神様に参拝してます。お墓参りにも毎月行っています。そんな私ですから、信仰心はある方だと自負しています。
 ですので、「神様は自分を守ってくれている」「すべては相応しく運ばれる」というふうに考えてます。この捉え方は決して間違ってないと思いまいますが、しかし、その思いが強すぎると「きっと、こうなるはずだ」「たぶん、この様な結果を得られるはずだ」などと、ある程度自分の思い通りになる事を望むようになります。実際私にはこの様な悪い癖があります。
 私は子供の頃から解脱の教えが大好きで、神仏に参拝することも好きでした。
教えを学ぶ両親から「自分の欲望を神様にお願いしてはいけない」「すべては自分に相応しくお運びいただける様に祈念することが大切」と諭されてきました。なので、自分の進学の進路や結婚のことも、氏神様等で「どうか自分にとって相応しい方向にお導きください」と祈念し、自分の希望が叶う様なお願い事は避けてきました。この事は50代になった今でも変わっていません。
 しかしながら、心の奥底には自分の思い通りを想定する御都合主義的な疾しい心がどうしてもあることに気づきました。会社の仕事の成り行きや子供の進学についても、「なにとぞ相応しくお導きください」と挨拶するものの、その結果が自分に意の沿わない事象になると、「どうしてなんだ」と不平の感情になることがあるのです。神様が相応しく運んでくれた事象なのに感謝の心を忘れ、想定通りにならなかった事に不満を持つなど、感謝報恩を学ぶ解脱会員として実に恥ずかしいことです。
 結局は自我が強いのだと思います。もっともっと自我没却の勉強をしなければなりません。
そして、もう一つの原因としてあるのは、信仰心が厚いが故の心違いでもあるのです。神仏を絶対だと信じるからこそ、必ず良い方向に運ばれるのだという思いが強すぎてしまい、意に沿わない結果になると、「おかしい、何故なんだ」という不平不満の心になってしまうのです。

良きも悪しきも、みな鏡

 真心で神様にご挨拶すれば、神様はその人にとって相応しい様に、良き方向に導いてくれます。
しかしながら、相応しく良き方向が、必ずしも自分の想定通りとは限りません。
例えば、就職先を選ぶのに自分では決めきれず、地元の神社に参拝し「自分にとって相応しい会社に就職できます様に」と願ったとします。そして、最終的に選んだ会社に入社したものの、仕事は想定した内容とは違い不満を感じ、職場の上司とは馬が合わないの苦労したりで「失敗した。神様は願いを叶えてくれなかった」と思い、不平不満の心になってしまったとしたら、これは大きな思い違えです。
 進んだ方向が自分にとって不都合な結果に見えても、それは間違いなく自分にとって「相応しい」方向に進んでいるのです。苦手な仕事もこなしていけば、やがて新たなスキルとなって自分の武器になり得ます。馬が合わな上司がいたとしても、なるべく合わせる様にして、上辺だけの付き合いを学ぶのも会社組織で働く以上、必要なことです。
このように、一見悪い結果になったとしても、実は自分を高める環境になっていたりします。辛い事や苦手な事は「己を磨く砥石と思え」というお言葉を解脱金剛様が残されていますが、真にありがたい教訓です。
 「相応しい結果 = 思い通りの結果」とは限りません。
むしろ、「相応しい結果 = 想定外の結果」になる時の方が多いのかもしれません。
良きも悪しきも、みな鏡です。どんな結果になったとしても、神仏への感謝の心を忘れてはいけません。
この心境に成れたとき、真の「信仰心」と言えるのではないでしょうか。
日々、努力精進して解脱の教えを学んでいきたいです。

かしこ

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