今回の自民党総裁選挙によって、改めて選択的夫婦別姓問題がクローズアップされました。この議論は、もう30年近く政界で議論されているようですが、いまだに決着のつかない問題です。それだけ、この問題は日本において実にデリケートな問題なのでしょう。今回は、私なりの見解を語りたいと思います。
結婚 = 嫁ぐ
まず、私個人としては選択的夫婦別姓は反対です。
結婚というのは、婚姻を結ぶことであり、結果的に家庭を築くことです。そして、嫁ぎ先の家系に入籍して、その家系の一員になることです。ですから、結婚というのは、ただ単に一緒に生活をするだけのものではなく、嫁ぐ方は、相手の家系に入るという覚悟がなくてはならないものだと思います。だとすれば、自分の姓は嫁ぎ先の姓に変わるのは、本来は議論の余地のない自然なルールだと言えます。
私の場合は婿養子なので、自分の「山口」という姓から「松原」という姓に変わりました。松原家には男子がいないので、家系を守るには婿養子を取る必要がありました。なので、私は山口家を出て、松原家に入ることを覚悟の上で結婚しました。姓が変わることに抵抗が全くなかったかというと、決してそうではありませんでした。生まれてから29年間親しんできた姓です。その姓を捨てることに戸惑いはありましたが、松原家を継いでゆく為に決断しました。自分のことよりも相手のことを思いやれる心があったのは、まさに解脱会の教えを学ばせて頂いたお蔭様だと思います。
「姓」は変わっても「名」は不変です。
夫婦別姓を主張する方々の意見には、自分の姓が変わるとアイデンティティが欠落しているとの主張があります。姓が変わると「自分らしさ」「自分の個性や特性」が失われてしまうということです。たしかに、数十年間築いてきたアイデンティティが、姓が変わることによって崩れてしまうような気持ちになるのは理解できます。特に、一生懸命に努力して今の地位を築いた方は、より一層抵抗感が強いと思います。
しかし、私の経験から言わせてもらうと、結婚して姓が変わっても自分の大切にしている感情まで変化するようなことはありませんでした。たとえ姓が変わっても、名まで変わるわけではありませんから、どこまで行っても自分は自分なのです。ただし、相手の家系の人間になったのですから、この家系を重んじて、必要であれば自分自身を変化させることは大切なことです。この感情こそは嫁ぐものの正しい精神であると私は思います。
選択肢としてはあり
しかし、私は反対ではありますが、選択的夫婦別姓の制度自体は必要であるとも感じます。
なぜかと言えば、「事実婚」というものがあるからです。このまま、選択的夫婦別姓を認めない日本国であると、この事実婚が存続していくことを容認するということになってしまうからです。事実婚には以下のデメリットがあります。
🔹事実婚は法律上の婚姻関係ではないので、相続権がありません。もし、パートナーが死亡した場合、遺言がなければ財産は配偶者には相続されず、他の法定相続人が優先される。
🔹事実婚では、配偶者控除や遺族年金などの公的な優遇制度が適用されないことがあります。特に税制上の控除や社会保険制度での不利が生じる場合がある。
🔹子供が生まれた場合、両親は婚姻関係ではないので、子供の戸籍と姓は母方になる。
事実婚の場合は、この様な煩わしさが常に伴います。また、こういったカップルが増えていくことは国としてマイナスでしかありません。夫婦別姓を望む方々が一定数いる以上、選択肢を作るしかないのではないでしょうか。
時代を直視
結婚後に妻が夫の姓を名乗るという制度は、明治時代に確立されました。具体的には、1898年(明治31年)に制定された民法によって、夫婦は同じ姓を名乗ることが義務付けられたのです。もっとも、庶民に姓が義務化されたのは1870年(明治3年)のことですから、それまでは「姓」は存在しませんでした。(武士や貴族には姓はありました)
この制度は、相手先の家系に嫁ぐという概念を具体化したものであり、とても大切な日本国精神であると思います。しかし、確実に時代の潮流は変化しています。良い悪いは別として「個人主義」が広まっている世の中を直視しなければなりません。
選択的夫婦別姓を国で認めて制度化し、事実婚を減少させるべきであると考えます。しかし、夫婦別姓を選択する人は、ごく僅かであると私は信じます。
いずれにせよ、『結婚』というものはとても良いものです。
これから結婚される方は、「家庭を築く」、「嫁ぐ」ということはどういう事なのか、いま一度深く考えてもらいたいです。
かしこ
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