文芸評論家の三宅香帆さんの本「考察する若者たち」を読み終えたので、感想を述べたいと思います。三宅香帆さんの本を読むのはこれで二冊目で、前回は『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んだのですが、この本についてはかなり批判的な感想を述べてしまいましたが、果たして今回はどうでしょうか?
この本では、現代の若者たちは報われない努力を嫌い、報いが得られる行為を求めていると書かれている。私も、息子たちが「最適解」という言葉を使っているの聞く時がある。「最適解」、つまりは「正解」ということだ。正解を出すための間違いのない行為であり解法ということだから、いっけん、合理的で正しい行為のようには思える。しかし、なんか胸につかえたような違和感を覚える。
無駄を省くことはいいことだ、いや、当然の行為と言える。わたしも近年は、調べたいことはAIに聞いている。以前はググっていたが、自分の欲しい情報を得るために一直線に辿り着けるのは、もはやググることではなくAIを使うことが「最適解」である。もちろん、AIにはハルシネーションがあることを理解してのことだが。
失敗は成功のもと
「失敗は成功のもと」という格言は真理であると思う。著者もこの本で書いている通り、人生は失敗の連続である。次々と失敗して、あらゆることを学び、そして自身を正してゆく。生きていくということはそういうことだと思う。しかし、ある目的に対した、三つの選択肢があり、すでに目的が達成できる選択がわかっていたとしたら、誰でも正解である選択を選ぶだろう。なにも間違った修羅の道を選ぶ人はいないと思う。
体験から学ぶ
たしかに正解がわかっていれば、それを選ぶべきだと思うが、正解がわからず迷うのが世の常である。そのときは、自身で選択するしかない。たとえ他人に、あるいはAIに相談したとしても、最終判断を下すのは自分自身である。その結果、正解を得られずに失敗することもあるだろう。しかし、それでいいのだと思う。
失敗したことで痛い思いをするが、それが大切なことではないのかと私は思う。痛いのは誰だって嫌なものだが、だからこその学びを得て自己成長に繋がるのだ。もし、失敗を恐れてばかりいたら、何も学べないのだ。
そういった痛い思いをしたくないからこそ、「最適解」を見出すのだという主張もあるだろう。しかし、正解を知っていて起こす行動を、正解がわからずに起こす行動とでは、その「体験」から得られる学びが違うのだ。正解を知っていれば目的に間違いなく到達できるが、ゴールに辿り着くまでの過程が、とても薄味な「体験」になってしまうのだ。だが、正解がわからずに、試行錯誤しながらも目的に達すれば、その過程で得た「体験」は、かなり濃厚なものになるだろう。
でも、失敗したら何にもならないではないかと思われるかもしれないが、その失敗した「体験」こそが実に大切なことなのだ。自分で選択し、痛い思いをしたからこそ深く学べ、それが血となり肉となるのだ。そしてその「体験」こそが人生における、強力な武器となる。「最適解」から作られた武器は、見た目は荘厳かもしれないが、案外脆く、戦闘の時に役に立たないと思う。
最適化された社会
考察(作者の解答)が正解であり、批評(他人の解答)は個人の感想である。たしかにその通りだ。若者としては、考察だけわかればよく、批評は不必要なものと著者は書かれている。この意見に私も同意する。ようは、若者は効率的に考え行動することを望み、なるべく無駄を省きたいという思考になっているように感じる。
そうなったのは何故か?これは現代の若者が悪いというのではなく、世の中が効率を求めているからだと私は思う。若者だけではなく、ほとんどの日本国民は「スマホ」を持っている。調べたいことは何でも調べられ、英語の学習アプリも腐るほどあり、そして今ではAIも使える。こんなアイテムが有る現代なら、誰だって効率的になり、「最適解」を求めるようになって当たり前だ。意味がわからない漢字熟語を、紙の辞書で調べるなんて行為は皆無に等しいだろう。だから、仕方ないことなのかもしれない。
しかし、それでも、失敗を恐れずに、遠回りになったとしても、感情に任せて進んでもらいたい。この本でいちばん刺さった言葉がある。『自分の好きなこと、やりたいこと、感じていること、そういうものすべてに意味がある』という一文であり、私は激しく同意する。繰り返しになるが、失敗という「体験」を活かしてもらいたい。
今回は三宅香帆さん本を読んで色々と学べたし楽しかった。批判にならなくてよかった。それが、いちばんの感想です😆
かしこ


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