平野啓一郎さんの『マチネの終わりに』を読んだのだが、あまりにも感動してしまったので、今回はこの本の感想を語ります。
2度読みすると変化も楽しめる
実はこの『マチネの終わりに』を読んだのは今回で2度目となる。私は、同じ小説を再読することはまずしない。少々読み直したいと思っても、また同じ本をもう一度最初から読む時間が無駄に思えるからだ。しかし、自分が本当に気に入った本であれば、今回のように読み返すこともある。この本を初めに読んだのは6、7年くらい前だったと記憶しているが、その内容は恋愛小説で、面白かったくらいしか覚えていなかった。案外に数年前に読んだ本でも、この程度しか覚えていないものだから、つくづく読書する意義に懐疑的な思いを寄せてしまう今日この頃だ。
前回読んだ時に、面白かったという感想は残っている。もっとも、面白くなかったと感じた本であったならば、再読するほど酔狂なことは流石にしない。何気ないちょっとした事から、この本を再度手にしたのだが、読み終えてとても感動してしまった。果たして、最初に読んだ自分は今ほどの感動を持っていたのだろうかと考えてしまった。2度目の読書だから、以前よりも深くこの本の世界に入り込めたのか、あるいは、己の感受性が変わったのかは定かでないが、ほんの数年間でも人の思考や感情は変化するものなのかもしれない。
純愛とは、こういうものなのか
恋愛小説はわりかし好きなジャンルではある。ストーリーの展開により男女間の心情の変化は、読んでいて楽しいし、登場人物に感情移入できるところもこの手のジャンルならではだと思う。いつの時代も男女の色恋沙汰は面白いものだ。本作『マチネの終わりに』は、蒔野聡史と小峰洋子の2人の視点を交互にして物語が進行していく。ふたりは仕事がらみで出会い、ここから恋愛が始まるのだが、この小説の面白いところは、ふたりが会う機会はたった3回(+1)しかないのに、お互いに深く愛を深めていくところだ。これは運命的な出会いという事なのだろうけど、さらに面白いのが、ふたりはなんとセックスをしていないところである。普通に考えれば、セックスもしていない40歳と38歳の男女が数回会っただけで、ここまで愛し合えるだろうかと疑問を持つところだが、読書中にはそのような疑問は抱かず、読み終えてから気づいたくらいだった。これが本当の純愛というものなのか?純愛というどこかフワッとした曖昧なものに、なんだか少し触れられたような気がする。
蒔野と洋子の恋路にはさまざまな妨害が入る。殊に、三谷にはかなりイラッとしたのだが、この様子を読んでいて、わたしは昔のアニメ「キャンディ・キャンディ」で、キャンディとテリーの恋路を邪魔したスザナ・マーロを思い出した。こんなことを思い出すのはわたしだけだろう😆
アメリカ人のリチャードにしても、婚約解消からの逆転で洋子を射止めて結婚できたのに、結婚して数年で不倫し、離婚をするなんてほんと酷い奴だ。このように、さまざまな妨害や行き違いにぶつかって、蒔野と洋子の恋路は完全に絶たれたかに見えたのだが、やがてはまた、引き合わされていくことになる。
見事な終幕
クライマックスでの、蒔野ニューヨーク・マーキン・コンサート・ホールでの公演の際に、観客席にいる洋子を見つけて、最後に映画音楽「幸福の硬貨」を演奏するシーンは最高にグッときて泣けた😭
この『マチネの終わりに』は映画化もされていたようだが、わたしはまだ観ていない。このシーンはどんな風に映像化されているのか気になってしまう。わたしの頭の中では、蒔野が偶然に観客席にいる洋子を見つけるシーンが生々しく再生されているので、逆になんだか映画は観たくないと思わせるほどの名シーンであると感じた。
タイトルの「マチネ」とは昼公演のことである。物語の最後の最後でこのタイトルの示す意味がわかるのだが、最後の一行まで読み終えて、わたしの目の前には光り輝く世界がパッと広がったような感覚に陥った。感動して涙ぐむだけではなく、その先にある未来への希望と明るさが脳裏を閃いた。ハッピーエンドなんて安っぽい言葉で言い表せない、とても清くて美しく、すっきりとした超絶感動の終幕だ。このあと、蒔野と洋子はどうなるのだろうかと考えることすら邪推に感じてしまうほどに。
「にがみ」あってこその「うまみ」
そして最後に、この小説は実に文章が「にがい」ことを付け加えておく。とても文章が文学的というか、言葉の使い回しがやや難解だと感じる箇所が多々あった。こんな読み方をするのかと思う漢字も少々出てきた。平野啓一郎さんの本は他に『本心』と『ある男』(こちらは只今読書中)を読んでいるが、この本ほどには読むのが難しいとは感じなかったので、この『マチネの終わりに』には、あえて文学的な表現を文章の中に散りばめているのかもしれない。文学的な表現を解読しながら読み進めるのも、読書の楽しみ方の一つだと思う。それは、天ぷらを食べていて、エビやキスが美味しいのだけれど、ふきのとうの苦味があるからこそ、天ぷら全体が美味しいと感じる感覚に似ている。わたしは難しい文章を読むのは苦手だが、また、チャレンジしてみようと思えた。
かしこ
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