この夏に夏目漱石の3部作、「三四郎」、「それから」、「門」を再読した。再読といっても以前に読んだのはたしか高校生の頃で、おそらく40年ぶりくらいになると思う。だから、ほとんど内容は覚えていない。ただ覚えていることもあり、それは、とても退屈でつまらない物語だったという感想だ。夏目漱石の作品では、「坊っちゃん」、「二百十日」、「こころ」はとても面白かったので、3部作と言われているこの3作にも手を出したのだろう。しかし、「三四郎」には「坊っちゃん」のような活劇的な面白さは皆無であり、「それから」と「門」はなんだか文章のトーンが暗い。高校生だった私にはまったく面白味が伝わらなかったのだ。それで、夏目漱石の作品を読む意欲を失ったのだろう、ここから他の作品を読むことはほとんどなくなってしまった。
しかし、面白くなかったこの本たちには、私の「夏の日の青年」の思い出が詰まっているような気がする。当時の文庫本の帯に、「この夏の読書」的なキャッチフレーズが書かれていた記憶がうっすらあるのだ。もしかしたら、夏休みの読書感想文の宿題で読んだのかもしれない。とにかく「夏」に読んだような記憶があるのだ。話は逸れるが、今時の夏休みの宿題に読書感想文はあるのだろうか?もし出されていても、今時は小学生でもAIに書かせてしまうのではないか。だとしたら、読書感想文の宿題などまったく意味がないだろう。
やはり、小説としてはつまらない
今回再読するにあたって、初めは「それから」と「門」だけ読むつもりでいたので、この順番で読了した。しかし、これだとなんだか中途半端な気がしたので、いやいやながらも「三四郎」も読むことにした。だから読んだ順番は、「それから」→「門」→「三四郎」となった。
今回は3冊それぞれの感想文を書くつもりはない。3部作を読んで何を思ったかを書くつもりだ。それでも簡単な内容だけ書いておくことにする。
「三四郎」では、主人公の三四郎が美禰子に恋をするが、その恋は実らずに美禰子があっさりと他の男と結婚してしまう話である。
「それから」では、主人公の代助が、親友の妻である三千代に横恋慕し、結果、自分の人生が瓦解してしまう話である。
「門」は、主人公の宗助が、親友の妻である御米と駆け落ちして、その罪の意識から逃れようとする話である。
まず、40年ぶりに読み返して、青年の頃には感じ得られなかった小説としての面白味を得られたかというと、残念ながら今の私でもそれはなかった。相変わらず「三四郎」は終始退屈だし、「それから」はラストの代助の慌てぶりだけは面白いと思ったが、あとはつまらない。「門」は3部作の中でも文章のトーンが暗いので、読んでいると暗い気持ちになった。強いて言えば、この中では「門」の人生の行き詰まりを感じた部分に関しては面白味があると感じられた。これについては、おそらく、青年の頃の私はまったく感じられなかった部分だろう。
人は、大人になると汚れる
この3部作を通して感じられたのは、『薄汚れていく恋心』である。「三四郎」の頃の青年期では、男子の恋焦がれは実に純粋なものであり、そこには汚れた感情などない。一途に女子を思う青くも清純な恋心である。しかし、「それから」では、30歳になると清い恋焦がれの感情は濁ってしまい、相手が人妻であっても自分のものにしたいという横恋慕が理性を破壊して、実際に行動に移してしまう。最後の「門」では、横恋慕したことに対する罪の意識が芽生える。それで、なんとかこの罪悪感から逃れようとして苦悩するのだ。これらの一連の流れは、最初は清い恋心であっても、人間として年齢を重ねていくと純真な恋も徐々に薄汚れていき、最後には汚泥にも等しくなるのだ。
これは極端な思考ではあるが、あながち間違いではないと思う。たしかに、青春時代に感じたキラキラした恋心をいつまでも抱いている人はかなり少ないのではないか。皆、少なからずその輝きは薄らぎ、鈍色を放つまでになってしまうのではないか。
この現象は恋心だけではなく、人間は歳を重ねるうちに金銭欲や地位欲によって心身ともにだんだんと汚れていくのかもしれない。だとしたら年齢を重ねることはなんて侘しいことなのだろうと思う。
今回この3部作「三四郎」、「それから」、「門」を再読したことによって感じられたことだ。さすがに、10代の頃にはこんな感想は得られなかっただろう。漱石がこの三部作で言いたかったことは、こんなことではなく、まったくの筋違いなのかもしれない。でも、それでいいと思う。本は、読んだ人々によって変化するものだと思う。だからこそ読書は面白いのだ。
改めて、この盆休み中に読書したことで、夏目漱石の作品に「夏に思い出」刻むことができた。また、いつかの夏になったら漱石の作品を読みたいと思う。
かしこ

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